++先輩のアルバイト++

 七月八日(木)

 教室よりずっと冷房の効いた研究室。
 静かな室内に、キーボードを叩く音が響く。
 左手に握られたプリントの数字をひたすら入力していくだけの単純作業。
 時給に換算したら800円がいいところ。
 しかし、オレの場合は日給で飯一食分、1000円くらいだった。
「一休みしましょおか」
 向こうで同じようにパソコンと睨み合っていた先輩が、白衣の襟を正して言った。
 水森 久紀(みなもり ひさき)先輩。
 一週間くらい前に偶然知り合った大学の先輩だ。
 上手く行けば、来年からオレも通うことになる妙義(みょうぎ)大学の四年生。
 理工学部鉱物学科在籍。
 かれんより長い黒髪にいつも左耳にしてる色が変わる宝石−かれんが言うにはアレキサンドライトって名前らしい−が自慢だ。
 ちなみに、今は緑に見える。
「あんまり続けても疲れるだけよ。はい、一枚どおぞ」
「あ、すんません」
 言われるままに先輩からウェットティッシュをもらう。
 額にさっと走らせると、ライムの微かな香りがした。
「お菓子もあるけど、食べる?」
 続けて先輩はバッグからビスケットのパックを取り出す。
 中央に銀の装飾が施された、先輩お気に入りの黒バッグ。
 バッグに限らず、服から財布、傘にいたるまで、先輩の身につけるものは黒と決まっている。
 白衣姿が見慣れないように思えるのは、きっとそのせいだ。
「せっかくだから」
 いただきます。
 オレはパックの中に手を伸ばした。
「なんか飲みます? 取ってきますけど」
「そおねえ。それじゃあ、缶コーヒーが冷蔵庫のフタの方に入ってるから、お願いできる?」
「はい」
 研究室の一番奥、簡易キッチンの一角に置かれている冷蔵庫を開けて、中から缶コーヒーを二本取り出す。
「どうもありがとう。それでどお? 順調?」
 プルタブを開けて、先輩が口を付ける。
「見た目より結構量があるんすよね」
「そおかもしれないわねえ」
「もしかして、最初から解ってませんでした?」
「そんなことないわよぉ」
 そう言いながら目は笑ってない。
 嘘がつけない人だ。
 最初から『大変だから手伝って』と頼めば良さそうなものだけれど、先輩としてそういう情けない姿は見られたくないらしい。
「出来る限り頑張りますから」
「はぁい、よろしくお願いします」
 オレが機嫌を損ねていないのを見てとると、先輩はにこりと微笑んだ。
 四つも年上だけれど、そんなところは可愛く思える。
 こういうのも日給に入ってると思うと、悪いバイトじゃない。
「そういえば、先輩ってバイトしてるんすか?」
 バイトという言葉で、ふとそんなことが頭に浮かんだ。
「え? してるわよ。今はレポートが忙しいからお休み中だけれどぉ……」
 暇なときはね。
 先輩は言った。
「そおねえ……。平均すると二万円くらいは稼いでるかしら。あ、もちろん長期休暇中は別ね」
「結構バイトしてるんすね」
 忙しくてそれどころじゃないと思ってた。
 理系って、朝早くから夜までずっと籠もりきりって聞いていたし、先輩に会ったときもそういうイメージだったからな。
「それなりに出ていくから、大変よ」
 飲み終えた缶を缶専用ビニールに投げ込むと、先輩は苦笑して言った。
「どんなバイトすか?」
「たまに専門的なお仕事もあるけれど、普段は個人指導ねえ」
「定番すね」
「あ、春休みにやった人工地震の定点測定は稼げたわねえ」
 めちゃくちゃ専門的な話題が出てきた。
「それで、普段教えてるのは中学生の女子なんだけれど、このコがまた変わったコでねえ……」
「へぇ……」
「普段は全然そんなことはないんだけどね。時々変なスイッチが入っちゃうのよ、きっと」
 先輩のバイト話が弾む。
 普段はレポートと実験漬けで、バイトもしてピアノも習っていて、先輩はいつ眠ってるんだろう?
 そんな疑問が浮かぶ。
「オレはそういうことってないっすね」
「生物学的性差かもしれないわね、そおいうことって」
「生物学的……」
 授業で聞いたことがある言葉だ。
 たしか倫理の授業だった気がするけれど、内容は全然思い出せない。
「生物学的性差。種としての男女差って言う意味よ。例えば男性の方が女性に比べて平均身長が高い、とかね。それは純然な事実で、差異でしょ?」
「性格的な事でもあるんすかね」
「証明は出来ないけれど、そおいう部分ってあると思うわあ」
 専門分野じゃないから、詳しくは解らないけれど。
 先輩は最後にそう付け加えた。
「そおいえば……、そろそろテストの時期よねえ。どお? 少しは勉強してる?」
「そう言われても……」
 してます、とは言えない。
「理系なら面倒見てあげるわよぉ」
「先輩の時間があったら、是非」
「それは後輩としてのお願い? それとも点数が危ないから?」

「無料か有料かってことすか?」
「ふふ、そおとってもらってもいいわよぉ」
 イヤリングに手を掛けながら、先輩は悪戯っぽく笑ってみせた。
「もちろん、可愛い後輩のお願いです」
「あははは、解ったわぁ。それじゃあ、もうひと頑張りしましょ」
 ひとしきり笑うと、先輩は人差し指をオレの額にぴたっと押しあてた。
「美味しい晩ご飯も待ってるわよ?」