アフリカ編まえがき まえがき
「"世界各国史 10 アフリカ史"」より
「"アフリカの21世紀 第一巻 アフリカの歴史"」より
 

■アフリカの定義

 「アフリカ」という場所は、地理的にも心理的にも遠い存在ではないかと思います。その言葉自体がとても曖昧な言葉なのですが、ここでは本Fairytaleにおけるアフリカの定義と、簡単な概要を記述します。一言で言えばアフリカは複雑怪奇であり、専門家が著書で指摘しているように、少なくとも日本国内での研究者は不足がちで、研究が遅れているように思われます。

 「アフリカ大陸」=「アフリカというイメージ」は同義ではない場合がほとんどでしょう。アフリカ大陸=アフリカだとすると、エジプトはアフリカに分類されますが、エジプトをアフリカと認識している人は多くないでしょう。
 一方で、いくつかの本ではアフリカをサハラ以南と定義するパターンを目にします。これは万年単位を扱う考古学を除けば、理にかなっているように思われます。(サハラ以北のアフリカは地中海を挟んでヨーロッパと古代から接触が有りました)
 Fiarytaleでもこの定義に従い、アフリカ=サハラ以南アフリカとすることにして、エジプトやリビアなどのサハラ以北アフリカはイスラーム編に回しました。(一部例外あり)

■アフリカの地理

 かなり乱暴な分け方になりますが、アフリカは三つの地域と二つの属性で考えると解りやすいと思います。
 三つの地域とは東、西、北であり、二つの属性は沿岸部(島嶼部を含む)と内陸部になります。

 まず、三つの地域に分割してみましょう。アフリカ大陸の地図をサハラで東西に、エジプト-リビアの国境線を南北にのばして線を引くと三つのエリアに分割されます。(アフリカ南部にはバントゥというグループで括ることも出来ますが、扱いが難しいな言葉なの省略します)
 まず先程も書いたように、サハラ以北はアフリカ大陸でありながらアフリカという文化圏からは逸脱しているように見えます。エジプトを始め、地中海に面する地域はギリシャ・ローマ時代からのヨーロッパと接触がありました。また、紀元後はキリスト教からイスラームがいち早く浸透した地域でもあり、誤解を恐れずに言えばアフリカらしくない地域と言えます。

 東地域は地理的に見てアラブ世界やインドなどとつながりが強い地域です。
 これはアラビア海やインド洋の季節風を利用した海上交易により、古くから同地域との交流があったことに起因しています。中東にも近い地域であり、大航海時代以前からアラビア商人たちが積極的に進出していたこともあって、西洋列強の植民地時代を経た現在でもイスラーム色が濃く、ムスリムが多い地域でもあります。

 反対にアフリカ大陸西側は西洋の影響が強く、宗教的に言えばキリスト教色の濃い地域と言えます。これは大航海時代以降に欧州各国が喜望峰ルートを通って世界へ旅立った結果であり、奴隷海岸、象牙海岸などというありがたくない名前が残っていることからもよく解るでせよう。

 以上、シンプルに言えばサハラ以北はアフリカらしくなく、サハラ以南の東側はイスラーム圏、西側はヨーロッパの(悪しき)遺産圏と言えます。

 沿岸部と内陸部の分類は、シンプルに外界との接触の有無にあると言えます。ガーナ王国やマリ帝国のように陸路ルートがなかったわけではありませんが、非アフリカ圏との接触という意味で言えば、圧倒的に海路ルートであったと言えるでしょう。

■アフリカ文化

 アフリカ文化で特筆すべきは以下の三点になるかと思われます。
 第一に車輪と梃子の原理を用いた道具が発明されなかったこと、第二に文字を持たなかったこと、第三は鉄に対する畏敬です。

 ひとつめはFairytaleではあまり関係がないので詳しく触れませんが、同じく車輪が発明されなかった(反証もありますが、大規模に使われなかったことは事実でしょう)中南米を考えると、あまり重要なファクターではないかもしれません。

 ふたつめは資料不足という問題として立ちはだかります。
 アフリカの歴史と文化を書き留めたのは専らギリシャ人やアラブ人といった外国人か、あるいはアラビア語を操るアフリカ人でした。
 考古学的な発掘はあるものの、Fairytaleの想定年代である1300年頃にアフリカの人々がどういった生活を営んでいたかは断片的資料から想像するしかない状況です。そして、アフリカの気候が遺跡の保存を極めて難しいものにしています。手付かずの遺跡は森に侵食され、高温と多湿のために崩壊しているところが多いのが現状です。

 最後はアフリカの文化、意識形成に大きく関連しています。
 アフリカでは製鉄業(鍛冶師)に対する畏敬の文化が各地に存在していて、彼らは特別な力を有していると信じられています。
 鉄は特別な金属であり、富と権力と武力の象徴でもありました。アフリカと言えば赤茶けた大地を想像する人が多いかもしれませんが、赤土は酸化鉄を多く含むラテライトであり、彼らはそれを使って鉄器を鋳造していました。(もちろん、他の方法もありました)
 ただ、彼らは鉄の融点(約1500℃)を超える火力を作ることは出来ず、打ち延ばして加工するところまでで、焼入れ、焼戻しと言った技法も発明されなかったとされています。(アフリカは金の産出地としても有名ですが、こちらは1000℃程度で融解します)
 アフリカの人々にとって鉄がどれほど特別なものであったかは、たいていの民族が鍛冶を単なる仕事ではなく祭事の一種とみなしている点、製鉄方法が秘匿されていたことなどから解ります。
 バントゥにはムヴェット(Mvet、またはMvett)という大叙事詩は鍛冶師と製鉄の秘技、つまり製鉄プロセスを神話化した長編ストーリーが伝えられています。ムヴェットは本来なら本編で紹介するべき一大叙事詩なのですが、残念なことに資料が原文のフランス語しかなかったため断念しました。(英訳もあるかもしれません)

■アフリカの中世、1300年前後のアフリカ像

 Fairytaleの想定年代である1300年前後のアフリカはいかなる世界だったのでしょうか。
 アフリカの人々は文字を持たなかったので、遺跡や外国人たちの手記などに頼ることになります。それによれば、地域差が非常に大きかったものの、おおむね共同社会生活を組織し、法と秩序を活用した生活を営んでいたと思われます。国家に関しては、首長も王も中央政府もなかったところもあれば、氏族社会が生まれたところもあり、大国家を建設したところもありました。

 アフリカ文明史には次のように書かれています。

「 (紀元1000年頃について)われわれは、アフリカのひとつの巨大なしかも多彩な地域が、ゆるやかに、しかし確実に成長と変化の過程にあったことを考えなければならない。多数の人たちは、相変わらず、だまって畑を耕したり、あるいは辛抱強く網を投げて魚をとったり自分たちの村、自分たちの家族、あるいは自分たちの氏族(クラン)の生活より広い世界は知らないで、彼らの古い習慣や考え方を守っていた。」

「すべての人々が、新しい形態の社会生活と政治の中へおなじ程度引きこまれたのではなかった。草原地方の多数の人々は、森林地方と同じように、彼らの牧場や農場の彼方の世界については知識も関心もほとんどなく、彼らの村の農場で出来る限り安全に生活し、自分の財産で満足し、煩わしに誰も来ないように希望しながら、昔とたいして変わりない生活を続けていた。だからと言って、彼らが国をつくり帝国を建てたその隣人たちより劣っていたとか賢明でなかったというわけではない。」

「かなり多数の部族が王とか皇帝を持たずにやっていくほうが良いことを知った。彼らはごく小さい中央政府の援助に寄って平和に暮らし、身を守り、富を蓄えた。王をいただかなかった者たちが、そうでない人に比べて、成功しなかったとはいえない。」

 重要なことは「村や氏族単位の生活を選択した人々が、中央集権的国家を樹立した人々より劣っているというわけではない」という一点に尽きます。とはいえ、この二項をそれぞれ説明するのは悪いことではないでしょう。

 当時の国家で最も有名と思われるのはマンサ・ムーサで有名なマリ王国(マリ帝国)でしょう。これは現在のマリ、モーリタニア、セネガルを横断する一大国家であり、金と象牙の交易で中世世界の一翼を担っていました。マンサ・ムーサはムスリムであり、彼が巡礼を行った話は今日でも有名で、道中で彼が消費した金によって、一時的に金価格が暴落したと言われています。

 一方で部族社会を維持していた人々も多く、私たちがイメージするアフリカ人はこちらに近いと考えて差し支えないでしょう。彼らは自然に合わせて、狩猟、農耕、牧畜で暮らしていました。文字や大規模建築を行うことがなかった彼らの中世における生活は謎ですが、おそらくヨーロッパ人探検家と接触する近代まであまり変わることはなかったでしょう。彼らの手記は大きな助けとなります。

 もう少しミクロな視点でも、いくつか解っていることがあります。
 まずは食物です。アフリカは一括りで語るにはあまりにも広大ですが、当時の人たちが手に入る主な食物としてモロコシ(=ソルガム。トウモロコシとは別物)ヤムイモ、タロイモ、ヒエ(=トウジンビエ)、イネ(=アフリカイネ)、バナナなどが挙げられます。反対に1300年にはなかったものとして、トウモロコシ、ラッカセイ、マニオク(=キャッサバ)、サツマイモ、パイナップル(いずれもアメリカ大陸原産)などが挙げられます。特にパイナップルをのぞいた四種は現在では主食級の作物であるため、話中にもごく自然に登場します。

 アフリカ原産(エチオピア起源と言われています)として有名なコーヒーですが、アフリカ民話ではお目にかかったことがありません。コーヒーを飲むシーンは千一夜物語にはよく登場しますし、イメージとしてもなんとなくアラビア方面を想起させます。実際に、コーヒーはアフリカから中東方面に広められ、イスラーム文化を経てヨーロッパに流入しました。

 家畜はなんといっても牛に代表されます。牛は金銭的価値を持ち、いくつかの部族では婚資として機能しました。豚は見られず、馬は環境的要因(アフリカ睡眠病/アフリカトリパノソーマに寄る病気)により飼育が難しかったため、権力、軍事力の象徴となっていました。らくだは紀元1000年頃以後、北部で次第に多く用いられるようになったようです。らくだを用いたサハラ交易の柱は金と塩の交換でしたが、その他に特筆すべき交易品としてコーラ・ナッツ、また、少数の奴隷売買も確認されています。奴隷貿易以外でも世界を移動するアフリカ人はそれなりにいたようで、中世ヨーロッパにも少なくない数が流入していたようです。宮廷にもアフリカ人がいた記録がありますし、宮廷知識人の他にも商人、客人、奴隷など立場は様々だったはずですが、庶民もアフリカ人を目にする機会があったかもしれません。

 宗教はだいたい政治権力と一体で、キリスト教やムスリムもいました。特にイスラームは都市部に浸透していたとされていますが、大部分は土着の宗教だったと考えて差し支えないと思います。世界的宗教との違いは、彼らは自分たちの宗教が自分たちだけのものであると考えたことで、これは隣接する諸族の差別化に役立ちました。今日でも各部族には、必ずそれぞれの創世神話があります。

 最後に、現代まで残っている1300年前後の素晴らしい遺跡をふたつ紹介しておきます。どちらも世界遺産に登録されています。

 ・グレート・ジンバブエ(ジンバブエ共和国)

 ジンバブエ共和国のほぼ中央に位置する遺跡です。かなり長期間に渡って栄えた都市で、1300年頃には衰退に向かっていたものの、まだ健在でしした。地域的にはアフリカ東部に位置し、イスラム世界を通じて中国まで繋がっていたようです。

 ・ラリベラの岩窟教会群(エチオピア連邦民主共和国)

 エチオピアは(反論はあるものの)アフリカ諸国では中世まで起源を遡ることが出来る珍しい国で、この教会群はまさに1200-1300年の間に作られたようです。エチオピア正教会というキリスト教一派の遺跡であり、イスラーム色が濃いアフリカ東部にあって、国の歴史ともども異彩を放っています。