「ヒサキはニホンから来たんだよな?」

「ええ、そうだけど……?」

 拙い言葉を手繰りながら、私は書類の束を端によせてコーヒーカップを置く。
 いつもの研究室ではなく今日は別の研究室のお手伝い……もとい、アルバイトだ。
 時々、研究室はアルバイトの募集をかける。
 たいていは一日限りで、書類整理や荷物運びなどの単純作業だ。
 それでも、伝手でしか回ってこないこの手のバイトは、結構いいお金になるのだ。

「ニホン人に会ったのはヒサシブリ。今日はアリガト」

「いえ、こちらこそ」

 私の倍はあるかという大きな手を差し出され、まるで赤ちゃんに握手するかのように包み込まれる。

 ここは水生生物調査の研究室。
 ずらりとならぶタンクからは絶え間なく循環する水音がするし、無数に並ぶ水槽には水草や貝、大小の魚の姿がある。
 今日のバイトはアンディエール川を調査した船が持ち帰った標本やデータを研究室に運んで整理するというもの。
 台車を使うとはいえ、水も砂利も重いという事実に変わりはない。
 それに、まだまだ言葉も未熟だ。
 それでも、なんとか搬入を完了させ、私たちは部屋の隅で昼食を兼ねたコーヒーブレイクを楽しんでいた。

「ヒサキ、このショコラもレコメンディドよ。レッツ、イート」

 私の横でチョコレートの包みを開き、口の前まで運んでくれるのはケイト。
 ここの研究室の院生で、私よりもふたつ先輩。
 大きなフレームの眼鏡がトレードマークで、明るくておしゃべり好きな人だ。

「いただきます……、ん、オレンジの味がしますね」

「オレンジピールね。ヒサキ、鳥みたいでミニョンだよ」

「はい、ケイト。おかえし」

「オー、あーーーん」

 私が上品な正方形のチョコレートを取ると、ケイトはひな鳥のように大きな口を開ける。

「ンー、ベリーテイストね。ソー、スイート。ハイ、ブルノーもどうぞ」

「メルシー、ケイト」

 そう言ってチョコレートを受け取ったのはブルノー。
 長身に短く整えた顎鬚が印象的な今日のリーダー的存在で、ふだんはベルンツィーナの大学で水生生物を研究しているそうだ。
 彼の大きな手に収まると、チョコレートがまるで切手サイズに見えてしまう。

「ヒサキは、本当はなにを研究してるんだ?」

「えーと、私は地質鉱物学……、宝石とか、石全般かしら」

「へぇ。ファエタは山ばっかりだから、サンプル取り放題ダナ」

「今度はワタシがヒサキに付き合うわ。任せて、冬山登山の経験もあるから」

 ぐっと親指を立てるケイト。

「俺も、スキーなら子供の頃から慣れてる」

「あはは。メルシー、ケイト、ブルノー。その時はお願いね」

「さあて、このパンを食べたら、もうひと頑張りしましょうか」

 ケイトが零れ落ちそうなほどのいちごジャムが挟まれたパンを両手に取る。

「ア!」

 そのパンを見て、ブルノーが素っ頓狂な声を上げた。

「ブルノーさん、どうしたの?」

「ん、どうしたの? もしかして、ストロベリー苦手だった?」

 私とケイトの視線がブルノーに集まると、彼は恥ずかしそうにまあまあと両手を広げた。

「それを見て思い出したことがあったんだ」

 そう言うと、ブルノーはラップトップでなにやら検索を始める。

「彼、好奇心が半端じゃないのよね。どこからどこに神経がつながってるのか、理解に苦しむくらい」

 ジャムパンを頬張りながらケイトが笑う。

「えーと……、ニホン語では何ていうんだ……?」

 ブルノーがディスプレイを睨みながら眉間にシワを寄せる。

「あ、学名でも大丈夫ですよ。なんでしたら、英語でも」

 理系の人間が集まると、困るのは専門分野の言葉だ。
 日常会話はどうにかなっても、専門用語は、自分の分野からちょっとでも外れてしまうとさっぱり解らない。
 ましてそれが外国語となれば、絶望的だ。

「なにを検索してるんですか? えっと、Dorididea……?」

 聞き慣れない言葉だ。

「ちょっとウェイト……」

 ブルノーの太い指が軽快にキーボードを叩く。

「エート……、あ、コレ! ヒサキは見たことあるか?」

「えっと……、ストロベリー・ジャム・シー・スラッグ?」

 このぐらい砕けた言葉になれば私にも解る。
 ディスプレイには浅い海底に張り付く真っ赤なシー・スラッグ、つまりウミウシの姿が映っていた。

「イエス。前にニホンのニュースで見たんだけど、とってもキュートだ。いつか、絶対にこの目で見てみたいよ!」

「ワタシにも見せて……。うえっ、シー・スラッグじゃない」

 パンを片手に覗き込んだケイトが眉をしかめてみせる。

「おっと」

「姿がストロベリー・ジャムに似ているから、ストロベリー・ジャム・シー・スラッグって言うみたい……って、そのままね」

「ヒサキも、食欲がなくなるようなこと言わないでよ」

「あ、ごめんなさい」

 ブルノーがあわててラップトップ画面を閉じる。

「イチゴジャムウミウシで検索……っと」

 愛用のラップトップで検索してみると、どうやら日本の一番南の県、それもごく一部の海域にしか生息していない珍しいウミウシらしい。

「う~ん、私は見たことないかしら。日本全国にいるわけじゃないみたいだし……」

 画像をスクロールしていくと、生物学的側面よりも姿かたちが可愛いウミウシとして広く知られているようで、ニュースにもなっていた。
 ブルノーが目にしたのも、この記事の英訳なのだろう。

「それに、いちごジャムというより、軍艦巻きに乗ってるいくらに見えるかしら」

「グンカンマキ? ロール? スシのことか……?」

「あ、えーと、軍艦巻きの画像は……。ほら、似てない?」

「オー! グンカンマキ!」

「あら、ワタシもスシは好きよ。本物の日本のスシを食べてみたいわ」

「それじゃあイチゴジャムウミウシとお寿司、日本に来たら私がガイドするわ」

「メルシー、ヒサキ!」

 大喜びで差し出された手を、ぎゅっと握る。
 コーヒーブレイクはこんなふうに過ぎていく。
 午後からは、また作業の続き。
 けれど、今日のバイトは大当たりみたい。
 バイト代が入ったら、瑞沢ちゃんのお手紙に入れるお土産でも探しに行きましょ。