++新しい春の終わり++

 四月二十日(火)。

 桜の花はすっかり散って、山を作っていた花びらもいつの間にかどこかに消えていた。
「ほらほら、おにいちゃん。元気ないよー?」
 数歩先の葉桜の下からオレを急かす声がした。
「前から車来てるぞ」
「えーっ?」
 刹那、小豆色のショートカットがくるりと周ってブロック塀に鞄を預ける。
 瑞沢 愛(みずさわ あい)。
 隣の家に住む、今年高校に上がったばかりの子だ。
「は〜、危なかった……」
 背中を丸めて、愛ちゃんが大きく息を吐き出す。
「大丈夫か?」
「あ、うん」
 制服の裾を払いながら、はにかんでみせる。
 愛ちゃんのそそっかしさは今に始まった事じゃない。
 小さい頃から、小学校に上がる前からずっとこうだった。
 高校生になって少しは良くなるかと期待したけれど、あまり変わらない気がする。
「む〜……」
「どうしたんだ?」
「ここのところ、汚れちゃったー」
 私立妙義(みょうぎ)高校の冬服。
 また聞きした話だと、男女ともにちゃんとしたデザイナーが手がけた作品だそうだ。
 自由すぎる規則のおかげで私服登校が許可されている我が校だけれども、制服は記念購入する、なんて言ってた同級生もいたほどだ。
「おにいちゃんも制服買ってもらえば良かったのに。おにいちゃん背が高いから、きっと似合ってたよ?」
 シャツの袖をくいと引っ張って鞄を背負い直す。
 教科書をいちいち持ち帰っているのか、随分と膨らんでいた。
「ネクタイ苦手なんだよ。あの、首んところが窮屈な感じがな」
「愛は気にならないけど……」
「今買っても、着れるのは半年ちょいだしな」
「もったいないよねー。彰人おにいちゃんも私服だし」
「んなこと言われてもな。それより、高校にはもう慣れたか?」
 入学式や部活の説明会で、最初の一週間はあっという間に過ぎさった。
 上級生であるオレにしてみれば毎日楽が出来て良かったけれど、愛ちゃんには目が回るような忙しさだっただろう。
 自分が一年生だった時の事を、ふと思い出した。
「うん。学食にも行ってみたしっ。とっても綺麗でびっくりしちゃったー。それに……」
 オリエンテーリングで回った施設の話を、愛ちゃんが身振りを交えながら語る。
 クラスにも慣れて友達も無事に出来たらしい。
 それから、部活は色々と回った末に止めたそうだ。
「それでね、明日は図書館で授業なんだよ」
「あそこ広いからな、迷子になるなよ」
「むー、まだそうやって子供扱いするっ!」
「マジで広いんだよ、あそこは」
 図書『室』ではなくて図書『館』だ。
 それに、ほんの二十日前までは中学生だったんだ。
 年齢にすればたったの二歳差でも、中学と高校という隔たりは大きく感じる。
「はーっ、解りました。もう、おにいちゃんてば……」
「心配してるんだって」
「にゅう。そういえば、おにいちゃんたち、入学式は何を着て行ったの?」
「ん……、オレはスーツだった。彰人もな」
「おねえちゃんは?」
「かれんは確か……、かれんもスーツだったぞ」
 家に三人で撮った写真がある。
 みんな紺か黒のスーツ姿だったはずだ。
「うあぁ、すっごく似合いそう……」
「よかったら後で写真見せてやるよ。っていうか、見たことあるだろ?」
「あ、そういえば見たことあるかもー」
「それで高校には制服ないのかって騒いだだろ?」
「あぅ……。でもでも、おねえちゃんってば絶対反則だよねー。足は長いし、手だってすっごく白いし、何を着ても綺麗だし可愛いし、頭だって……」
 愛ちゃんの口から次から次へと羨望の言葉がついて出る。
 ずっと昔から、そして今でも愛ちゃんの目標。
 相手は、すぐ近くに住むオレの同級生にして、やっぱりオレたちの幼馴染。
「おにいちゃんもそう思わないー?」
 愛ちゃんにこう訊かれるのは、もう百回をくだらない。
 オレが返す言葉も決まってる。
「愛ちゃんには愛ちゃんの良いところがあるだろ?」
「そうかなあ」
「多分、そうだ」
 かれんと比較するのは色々な意味で間違っている気がする。
「それって……」
 全然フォローになってないよ。
 じと目で愛ちゃんがオレを見上げる。
「愛ちゃんの方が元気あるよな。かれんはいつも眠そうだし」
「おねえちゃん、病気してるみたい」
「間違っちゃねえだろ」
「他にはー?」
「他には……」
 あと、愛ちゃんがかれんに勝ってるところ……。
「もー、おにいちゃんがどんな目で愛を見てるかよく解ったよ」
 反論出来ない。
 けれど、オレでなくてもすぐには思い浮かばない、はずだ。
「でも、おねえちゃんなら仕方ないかな」
「相手が悪すぎるだろ」
「おにいちゃんが言うと、なんかひっかかるけどー……」
「そう言うなって」
 愛ちゃんの頭に手をおきながら、オレは言葉を濁した。
「にゃぅ……」
「しかし、愛ちゃんも高校生だもんな」
 改めて同じ高校の制服に身を包んだ愛ちゃんを見下ろす。
 この間まで一人だけ中学の制服を着てオレたちの後ろを追いかけてきたあの愛ちゃんが、こうやって隣を歩いてる。
 いい加減慣れたとはいえ、不思議な感覚だ。
「なにー?」
「入学試験、難しかったんだろ? よく頑張ったよな」
 塾にも行ってたけれど、一緒に勉強することも多かった。
 合格発表の日は自分の時よりも落ち着かなかった気がする。
 家の前で合格の報せを本人から聞いた時は、かれんと彰人とハイタッチで祝ったっけ。
「うん、今年は社会が難しかったって言ってたよー」
「覚えてるか? 試験から帰ってきた日よ……」
「もーっ! その話はもうしないって言ったでしょっ!?」
「あぁ、そうだっけか。わりいわりい」
「おにいちゃん、絶対愛をからかって遊んでる……」
「あまりにも衝撃的だったからな」
「あぅ……。愛、そんなに変な顔してたのかなぁ?」
「なんつうか、蒼い顔ってのはああいうのを言うんだろうな、って」
 いま、こうやって仲良く同じ高校に通っているから笑いごとで済む話。
「試験の最後でね、おねえちゃんが解らなかったらとりあえず3って書いておけばいいよ、って言ってたのを思い出して……」
「……」
 意外な新事実。
 言う方も言う方だけれど。
 それを実践した愛ちゃんは、もっとすごい。
「そんで受かったのか?」
「それで5点は稼いだもんっ。きっとそうだよー」
 それが事実かどうかは永遠に解らない。
 けど、愛ちゃんがそう思ってるなら、そうに違いないんだろう。
「もう止めろよ」
「うん。愛も、あんなに緊張する試験はもうこりごりー」
「オレもだ。そんな話は二度と聞きたくねえ」
 幸い、我が校は大学付属校だ。
「おにいちゃん。高校って、面白い?」
「そうだな……」
 電車で通学するのも、クラスの大半が知らないヤツって体験も初めてだった。
 周りがみんな秀才にも見えたっけな。
 みんな同じ試験を合格して来たんだけど、オレが一番ダメだったんじゃないかって思ってた。
 早々にバイトを始めた友達がいたし、中学で全国まで上り詰めた部活人間もいた。
 色々な意味で、自分の世界が少し広がった気はしたよな。
「きっと、面白れえぞ」
「そっかー。おにいちゃん見てると、愛もそう思うもん。間違いないよね」
「そんなに楽しそうにしてるか?」
「うんうん、毎日幸せそー」
「どういう意味だよ、それは?」
「さーて、どういう意味でしょうねー?」

 両手を後ろ手に組んで、愛ちゃんが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「この……」
「わ、おにいちゃんが怒ったっ」
 首根っこを掴もうとしたオレの手をくぐり抜けて、再び愛ちゃんは駆け出す。
「運動不足のおにいちゃんなんかには捕まらないよー」
「上等」
 腕をまくって足に全速前進の指令を出すと、あっという間に愛ちゃんに追いついて見せた。
「わわっ!」
「覚悟しろよ」
「ちょ、ちょっと待ったっ! ストップ!」
 こうやって、高校三年目の幸せな生活は幕を開けたのだ。